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十一人の越冬隊


   
映画パンフレット(朝日新聞社・B5)      VHSビデオ



原 題:十一人の越冬隊
製 作 国:日本
製 作 年:1958年(S33)
配    給:ニッポン・シネマ・コーポレーション
上映時間:1時間20分

スタッフ
企  画:文部省
製  作:朝日新聞社、日本映画新社
撮  影:藤井恒男、佐伯富男(越冬隊員)、疋田桂一郎、森松秀雄(本観測隊員)
現地録音:作間敏夫(越冬隊員)
製  作:堀場伸世
音  楽:林  光
解  説:小沢栄太郎

ストーリー
 一九五七年ニ月十五日、プリンスハラルド海岸のオングル島に昭和基地の家作りを終えた日本の設営隊は、観測船宗谷で凍った岸辺を離れていった。暖かい故国日本へ帰る人とつめたい氷の世界に残される人、手を振って名残りを惜しむ隊員の声は次第に汽笛に消されてゆく。
 昭和基地はオングル島の砂地に建てられたが、形ばかりでまだ冬越しの仕度はこれからだ。建物の近くには三百トンの資材が山積されている。一方基地から二十五粁はなれた宗谷の去っていった氷の岸壁にはたくさんの荷物が残され、それも基地に運ばなければならない。二月から四月末まで十一人は一日の休日もなく、平均十ニ時間の労働が続いた。
 南極の秋は短かく、冬の前ぶれのブリザードがやって来た。瞬間風速五十米にも及ぶこのブリザードの中でも作業が続く。
 百時間のブリザードの後、基地は雪に包まれてしまった。オングル島を囲んでいたパックアイスがばらばらに割れて、まわりは自由の海になっていた。三十粁さきのラングホブデ山地までも海だった。
 四月半ば、基地も九分通り建設が進み、隊員の半分が雪上車のテストをかねて大陸ラングホブデ山地の裏側へオングル海峡を渡って初めての旅行に出発。五月に入ると太陽は地平線からちょっぴり顔を出すだけとなった。基地の飲料水は燃料を節約するため、海氷の上の溜まり水がまだ凍らない所がありそこからとった。五月三十一日昭和基地では太陽の光線との別れの日を迎えた。
 六月一日から五十日余り基地は光のないシーズンとなった。しかしこの暗い冬を基地の中に過す隊員たちは各種の科学観測に熱心であった。宇宙線観測、気象の観測、オーロラの観測、雪の観測などだ。一方基地の心臓部無線室では大陸内十ケ国三十数基地、米、ソ、英、豪、ノールウェーなどの基地との交信に忙しい。又離れた故国にいる家族の声がアマチュア無線によって基地に伝えられた。
 七月十三日、四十三日ぶりに太陽が凍った地平線に姿を見せた。つめたい冬を屋外で生き抜いた十九頭の樺太犬が元気に吠え立てている。隊員達は春の太陽を浴びた雪原上でラグビー遊びや裸の体操が始まる。
 夏も近く、素晴らしい七色のオーロラが極夜を美しく彩る頃、大陸旅行が始まる。第一はオングル島から南のリュツオウホルム湾を渡ってパッダ島、更に大陸にのぼり、そこからプリンスハラルド最高の峰ボツンヌーテン登頂の旅だった。先づ九月ニ十七日にニ台の雪上車による海氷上からパッダ島への旅行が始まった。島の近くでは大きな丸い氷山の上を通りクレバスを渡りさらに氷が重なりあった氷丘脈を越える苦しい旅行が続いた。こうしたパッダ島をすぎ大陸の一角深入江台地にとりつき、デポを作り帰った。昭和基地からデポまで百粁、これを前進基地として十月十六日には犬ぞり隊がボツンヌーテン登破に出発。中野博士をリーダーとする三隊員は十月ニ十七日困難の旅をつづけ標高一四五十米のボツンヌーテン山頂をきわめた。頂上にはケルンを積み上げ、日本探検隊の名前を刻んだ記念の銅板をうめた。
 次の旅行計画はリュツオホルム湾東側の三つの露岩山地の調査で先ず十月終り、基地から七十粁南のスカーレンへ雪上車が出発。地質学者の立見博士がリーダーである。ここでは古代変魔岩の美しい地層を発見。又氷河が置き忘れた漂石のサッコン等が生々いかった。次の調査は基地の南五十粁のスカルプスネースへ出発。ここでは岩石標本集めにはショイコを使う作間隊員が活躍した。グラニットの地層が出ている所からはペグマタイトにウラニュウム鉱を多量に含む石を発見。次は基地から南三十粁プリンスハラルド海岸で一番大きな岩肌をみせるラングホブデ山地の調査で十〜十一月まで続いた。ラングホブデ最高の山は五百米もあり、氷河作用で幾つもの峰や深い入江、湖なども作られていた。変磨岩の赤茶けた岩肌の間に真赤なコケが発見された。調査中、突然の強風でテントが倒れることもあった。この三つの山地の調査で解ったことはここの地区は数千年前まで氷河におおいわれていたもので陸地が顔を出したのは最近のことだという結論だった。
 旅行計画の最後は昭和基地から北東エンダービーランドの中間にあるプリンスオラフ海岸の探検で往復四百粁のコースだった。十二月半ば、海氷上を西堀隊長など三名が犬ぞりで日の出岬まで行った。
 この頃、越冬交代者をのせた宗谷は暴風圏にか々っていた。基地と宗谷との連絡は越冬隊員たちの帰国の日も近いと十一人を沸き立たせる。十二月二十日、宗谷が昭和基地へ七百粁に近ずきパックアイスを進んで行った。その船上にアデリーペンギンがチョウネクタイをつけて訪問した。間もなく迎えたクリスマスイヴ、ケープタウンで買ったクリスマスツリーが立てられた。ひきつづき年の暮を迎えお餅つき。
 一九五八年元旦、基地ではヒゲを刈りこんで記念撮影、宗谷では国旗をかかげてハッピーニューイヤー。宗谷は新年の祝を終ると三日間のブリザードでパックアイスの中にとじこめられてしまった。ニ米の厚さの氷板を前進のためダイナマイトによる爆破が試みられたが歯がたたず、そのまま天候待ちとなった。しかも昭和基地の北百八十粁に閉じこめられたまま氷板と共にリュツオルム湾を西へ西へと一ヶ月余りの漂流が続いた。閉じ込められて三週間、松本船長はヘリコプターで偵察したがその結果は脱出が非常に困難の見通しとなった。二月六日、ようやくインド洋に出た傷ついた宗谷はアメリカ砕氷船パートアイランド号の救援をうけて冬せまるリュツオルム湾の厚い氷に再び挑んだ。二月八日、オープンシーからビーバー機「昭和号」が昭和基地上空へ連絡のため飛び立つ。ビーバー機をあおぐ十一人は手をあげ、旗をふる。パラシュートで恋人の手紙や新鮮な野菜などが投下される。バートンアイランド号の昭和基地進入は悪天候の中に続いたが基地へ百五十粁の点でこれ以上の接近は不可能となった。そこから湾氷の上を雪上車で物資輸送が計画されたが重なり合う氷の山で失敗。
 一九五八年二月十ニ日から十三日にかけてバートンアイランド号と宗谷のいる地点から十一回のビーバー機による救出飛行が続いた。迫る南極の冬にすでに海面は凍り出して危険である。昭和基地の十一人は一人当り旅行カバン一個程度の荷物しか持ち出せず、あわただしい基地との別れとなった。思い出のノートや記念品の多くを基地に残したまま去らなければならぬ。救出着は次々に基地の前の氷の上から隊員たちわ救い出す。飛行機の窓からは十一人が整備した四つの建物から遠ざかっていく。隊員達の引揚げたあとの昭和基地には十五頭の樺太犬と苦労して集めた観測資料の多くも残された。リュツホルム湾の凍った海を後にする越冬隊員は宗谷の後甲板ではるかに昭和基地を眺め立ちつくす。

                     映画パンフレットより


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